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年末が近づいてきたので、「今年買って一番役に立った本(※曹植関連で)」を選びたいと思います。

『曹植文学研究』(邢培順 / 中国社会科学出版社)


出版は2014年です。曹植作品を分析した本の中では、圧倒的なボリューム(B5サイズで500頁くらい)で、ジャンルごとに詳細な分析がなされています。正直言って、私も最初のページから最後のページまで読み尽くしたとは言えず、ざーっと興味があるテーマの部分を中心に読んだだけですが、たとえば曹植から呉質への手紙を「絶交状」だと書くなど、学術書にしては面白い見立てが書いてある本です。

中国の曹植関連本をいくつか読むと、ひたすら曹植礼賛といった内容のものが多く、それだけ中国では尊敬されている人物だということはわかるのですが、無批判な称揚はちょっと自分の読みたいものと違います。この『曹植文学研究』は、もちろん全編にわたって曹植推しなわけですが、雰囲気だけで「凄い!」と言うのではなく、ちゃんと凄さを説明してあるのがいいところだと思います。



それから、今年は古い曹植関連論文を見つけて盛り上がったりもしたのですが、意外なところで曹植と関わる内容があって面白く読めた論文が、『漢魏の都城〝許昌〟』です。

ありがたいことにネットで読めます。『後漢魏晋南北朝都城境域研究』 というタイトルで本にもなっているようです。買いたいけどあまりに高いので、とりあえず同じ著者の『千年帝都 洛陽』という本を買いました。

『千年帝都 洛陽』には、『洛神賦』にも登場する洛陽八関の位置関係がわかりやすく地図になっていて、「おお!ここが曹植が通った(かもしれない)場所か!」と一人で盛り上がっていました。地図を眺めると、曹植の『洛神賦』に出てくる地名は洛陽の南側に偏っていて、そこは洛陽から許昌へ抜けるルートとも重なるため、曹植は洛陽経由で許昌に向かったのかもしれないという可能性も考えました。制作年代について、私は黄初四年説を支持していたのですが、曹丕がいる許昌に向かったのなら、黄初三年説もありかな~と思ったり。


それはさておき、許昌がどういう都市だったのか、この論文で具体的な広さとか構造をイメージすることができました。内城部分はわりと小さめだったようです。論文には楊修の『許昌宮賦』がチラッとでてくるのですが、『許昌宮賦』をあらためて読んでみると、許都は首都と呼ぶには質素だったような感じがします。ちなみに、卞蘭にも『許昌宮賦』という同タイトルの作品がありますが、こちらは明帝期の許昌を描いたもので、何晏の『景福殿賦』などと同時期に作られたもののようです。


あと、この論文から、許都に「南國」という別称があることを知りました。曹植の『雑詩六首』其の四の冒頭に、「南國に佳人有り」とあるこの「南國」は、ひょっとして許昌のことじゃないかと考え、じゃあ「佳人」って誰よ!?という妄想で、小一時間盛り上がったのもいい思い出です。なんか、論文の本旨と違うところばかりで盛り上がって、著者の方に申し訳ない気持ちでいっぱいです(>_<)



今年の私のブログを見ると、6月~9月しか更新していないというものすごい偏りようです。更新していない時期は、たいてい別のジャンルにはまっています(^^;。でも、別ジャンルへの熱が冷めると、また曹植の作品に戻ってくるという流れをこの十数年繰り返しています。来年も多分変わらないだろうな…



ではでは。皆さま良いお年を~(´∀`*)ノ
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建安文人の作品には、宴会の場などで主催者の要請に応じて競作したものがいくつかあります。以下、賦の序文などに書かれたそれらの例をあげてみます。

(1)曹丕『馬腦勒賦』:(要請した人)曹丕→陳琳・王粲
瑪瑙、玉屬也。出自西域、文理交錯、有似馬腦、故其方人因以名之。或以系頸、或以飾勒。余有斯勒、美而賦之。命陳琳・王粲并作。
【訳】瑪瑙(メノウ)は玉の一種である。西域に産出し、模様が馬の脳みそに似ているため、その名が付けられた。首飾りにしたり、馬の面繋(おもがい)を飾ったりする。私は瑪瑙の面繋を持っていて、美しいので賦を作った。陳琳と王粲にも命じて作らせた。

(2)曹丕『槐賦』:曹丕→王粲
文昌殿中槐樹、盛暑之時、余數遊其下、美而賦之。王粲直登賢門、小閣外亦有槐樹、乃就使賦焉。
【訳】文昌殿の庭に槐の木があり、暑い盛りに、私はしばしばその下で遊び、美しいので賦を作った。王粲が登賢門にいて、小閣の外にもまた槐の木があったので、王粲にも賦を作らせた。

(3)摯虞『文章流別論』(※『古文苑』巻7章樵注):曹丕→陳琳・王粲・応瑒・劉楨
建安中、魏文帝從武帝出獵、賦、、命陳琳・王粲・應瑒・劉楨並作。琳為〈武獵〉、粲為〈羽獵〉、瑒為〈西狩〉、楨為〈大閱〉。凡此各有所長、粲其最也。
【訳】建安年間に、魏の文帝が武帝に従って狩りに出かけ、『校獵賦』を作り、陳琳・王粲・應瑒・劉楨にも同じように作らせた。陳琳は『武獵賦』、王粲は『羽獵賦』、応瑒は『西狩賦』、劉楨は『大閱賦』を作った。それぞれに優れていたが、その中でも王粲のものが最も素晴らしかった。

(4)曹丕『寡婦賦』:曹丕→王粲
陳留阮元瑜、與余有舊、薄命早亡、毎感存其遺孤、未嘗不愴然傷心。故作斯賦、以敘其妻子悲苦之情。命王粲并作之。
【訳】陳留の阮元瑜は、私と旧交があったが、若くして亡くなった。彼の残した家族の事を思うと、いつも悲しみ心を傷めずにはいられない。そこでこの賦を作り、妻子の悲しみや苦しみを述べた。王粲にも命じて賦を作らせた。

(5)楊脩『孔雀賦』:曹植→楊修
魏王園中有孔雀、久在池沼、與衆鳥同列。其初至也、甚見奇偉、而今行者莫詆。臨淄侯感世人之待士亦咸如此、故興志而作賦、並見命及。
【訳】魏王の庭園に孔雀がやって来て、ずっと池のあたりにいて、他の鳥たちと同じように暮らしていた。孔雀がはじめて来たときは、、その立派なさまに注目が集まっていたが、今では訪れた人も見なくなってしまった。臨淄侯は世間の人々の立派な人物に対する待遇もこのようであると思い、そこで志を興して賦を作り、私にも作るよう命じた。

(6)劉楨『瓜賦』:曹植→劉楨
楨曹植座、廚人進瓜。植命為賦、促立成。
【訳】劉楨は曹植の宴会に出席し、料理人が瓜でもてなした。曹植は賦を作るよう命じたため、立ちどころに作り上げた。

(7)曹植『七啓』:曹植→王粲
昔枚乘作七發、傳毅作七激、張衡作七辯、崔駰作七依。辭各美麗。余有慕之焉。遂作七啓、并命王粲作焉。
【訳】昔、枚乗は『七発』を作り、傅毅は『七激』を作り、張衡は『七辯』を作り、崔駰は『七依』を作った。どの文章もそれぞれにたいへん美しい。私はこれらを心から愛した。そこで『七啓』を作り、あわせて王粲にも『七釈』を作らせた。



他にもあったような気がするので、見つけたらまた追加しておきます。


ぱっと見でわかることは、とにかく王粲が多いことです。王粲は建安七子中、最高の文人と言われていますが、この評価の高さは当時から変わらないのではないかと思います。また、曹植サロンに比べ、曹丕サロンの方が規模が大きいような感じがします。曹植の方は、本当に個人的なおつきあいで、仲のいい人に依頼したという感じ。このあたりは、当時の権力の差が出ているのかもしれません。

他に傾向として気になったのは、こうやって作らせるのは「詩」ではなく「賦」だということです。(7)の『七啓』『七釈』の「七」というジャンルも「賦」から派生したものなので、ここで挙げたものはすべて「賦」だとも言えます。もっと時代が下がると、こういう場面で「詩」を作るのが普通になると思うのですが、建安年間では、まだ「賦」だったようです。

ちょっと前に四言詩と五言詩を調べていて、建安文学は実態より「五言詩」の存在感が強調されすぎているのではないかと感じたのですが、そもそもこの時代は、「詩」より「賦」の方が主流だったのだと思います。まあ、それが忘れられるほどに建安の五言詩が後世に与えた影響が大きかったということでしょうか。

また、建安文学は、「政治の場においては主君と家臣だったが、文学の場においては平等であった」などと言われますが、上記の例を見る限り、やはり作品を作れと命じるのは曹家の人間です。しかし、命じられたから絶対作らなければならないというものでもなかったようで、楊修は「曹植から作れと言われたけど、出来が悪かったので提出しなかった」と手紙に書いています。

それと、同時の作と断定はできませんが、建安文人たちは同じタイトルの作品を多く残しています。たとえば、『鶯賦』『迷迭賦』『車渠碗賦』『柳賦』『大暑賦』『神女賦』『鸚鵡賦』など。上の(1)~(7)に出てきた作品も、名指しはされていないけれど、同じタイトルの作品が多く存在します。一方で、上記の(3)のように、同じテーマ同じ場所で同時に作ってもタイトルが違うというパターンもあるようなので、どの作品が同時の作であるのか判断するのは難しいです。


それにしても、建安七子は一緒にお出かけしたらそこの風景を詠まなければならないし、デザートが出てきたら感想も賦さなければならないし、俺様の宝石自慢にも付き合わなければならないし、いつお題が回ってくるかわからないので気が抜けませんね(^^;



調べたいことがあって文帝紀を読んでいたら、ちょっと気になったことがありました。

[黄初三年]八月蜀大將黃權率衆降。
【注】魏書曰。權及領南郡太守史郃等三百一十八人、詣荊州刺史奉上所假印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車。權等詣行在所、帝置酒設樂、引見于承光殿。……



222年8月、降伏してきた黄権らを承光殿で引見したいう話が載っているのですが、明帝紀を見ると、

[太和六年]九月行幸摩陂、治許昌宮、起景福承光殿



となっていて、承光殿は232年に作られたようなのです。222年にはまだ存在していないのでは……?と疑問に思ったので、いろいろな可能性を考えてみました。



(1)黄権らを引見した場所の名は、そもそも承光殿ではなかった。
当時まだ承光殿はなかったが、後の時代の人が「許昌で宴会したならあそこだろう」と勘違いして承光殿と書いてしまった。

(2)黄権らを引見した場所は許昌ではなかった。
「承光」という名はわりとメジャーなようで、承光という名の宮殿があるのは許昌だけではないようです。後漢洛陽にも承光宮というのがあったらしい。

(3)222年時点で、承光殿はすでに許昌にあった。
黄権らを引見した場所が「許昌の承光殿」で間違いないと考えた場合、そもそも222年時点ですでに承光殿は出来上がっていて、232年に明帝があたかも初めて作ったように書いたのは嘘である。つまり、明帝の土木工事好きを水増しするために書いた。

(4)222年に引見したのは旧承光殿で、232年に完成したのは新承光殿である。
建て替えか、移築か、増築かわかりませんが、それ以前の承光殿とはかなり変わったので、232年に承光殿リニューアルオープンという意味で書いた。



……結局のところ、どれが正しいのかはよくわかりません(-_-)

ちなみに、『水経注』に、景福殿は太和年間に作られたと書かれていますが、承光殿については記述がありませんでした。何晏『景福殿賦』によると、承光殿は景福殿の南にある政治空間だったようです。



曹植の『野田黄雀行』という作品があります。この作品の元ネタではないかと言われているのが、前漢の焦延寿という人が書いた『焦氏易林』の一節です。

雀行求粒,誤入罟罭。賴仁君子,復脫歸室。
【訳】雀が餌を求めて出かけ、誤って網に掛かってしまった。仁なる君子のおかげで、脱出して帰ることができた。
雀東求粒,誤入罔域。賴逢君子,脫復歸息。
【訳】雀が東の方に餌を探しに行き、誤って網に掛かってしまった。君子に出会って、脱出して帰ることができた。


※『焦氏易林』についてはこちらのサイト様が詳しいです。

曹植の『野田黄雀行』が、この『焦氏易林』から直接ヒントを得て作られたという確証はないのですが、当時、「網にかかった雀とそれを助ける君子」という物語の類型があったようです。曹植の作品は上記の繇辞とあらすじは同じでありながら、君子を少年に設定したり、剣を権力に見立てたりといった他の要素が付け加えられ、趣向を凝らした物語に仕上がっています。

ところで、この『野田黄雀行』に出てくる雀とは丁儀のことで、物語の中で少年によって雀が救済されたように、現実でも丁儀が許されることを願った作品だと言われています。この解釈が正しいなら、この作品は220年頃に作られたことになります。私は雀=丁儀とまでは思っていないのですが、やはり網にかかった雀というのは、何らかの罪に問われ処刑されかけている曹植に近い人物(あるいは本人)を表現していると思います。


『野田黄雀行』と同様、鷂(ハイタカ)にねらわれた雀が登場する設定で、曹植は『鷂雀賦』という作品も作っています。『鷂雀賦』では雀を助ける君子はあらわれず、自力で鷂から逃れ巣に戻ります。こちらの作品も『焦氏易林』に元ネタらしきものがあります。

雀行求食,出門見鷂;顛蹶上下,幾無所處。
【訳】雀が食事を求めて出かけ、門を出ると鷂に出くわした。上下がひっくり返るほど驚いて、慌てふためく。
雀行求食,暮歸屋宿;反其室舍,安寧無故。
【訳】雀が食事を求めて出かけ、日暮れに家に帰る。家に戻って、安寧無事なり。
雀行求食,暮歸孚乳;反其屋室,安寧如故。
【訳】雀が食事を求めて出かけ、日暮れに帰り雛を養う。家に戻って、安寧にして元のごとし。



『鷂雀賦』出てくる雀は、曹植本人であると解釈されることが多く、雀の命をねらう鷂(ハイタカ)は曹丕であると言われています。これもやはり黄初年間に作られたもののようです(※隋代の石刻によると「黄初二年二月記」)。賦の最後、鷂の攻撃から逃れて家に戻った雀は、待っていた奥さんに、「俺はすばしっこいし、生まれつき弁も立つ。千言万句まくし立てて、逃げて来てやったよ」と自慢します。

『鷂雀賦』と『野田黄雀行』は、同じような題材で近い時期に作られた作品でありながら、かなり雰囲気が違います。『野田黄雀行』の「少年による救済と雀からの感謝」といったさわやかで美しい読後感に比べ、『鷂雀賦』はストーリーも言葉使いも俗っぽく、雀は誰からの救済も受けられません。そして、冷酷な鷂から逃れられたのは、自分の才覚によるのだと自慢しています。

この作品が作られた黄初年間、曹植は罪に問われると、ひたすら謝罪を繰り返してきました。しかし、『謝初封安郷侯表』『責躬詩』『応詔詩』などで見せた反省の態度が、それらの作品と同時期に作られた『鷂雀賦』を信じるなら、内心では「勝手な理由で命を狙われたけど、俺は有能だから上手く言いくるめてやった」と思っていたことにってしまいます。

もちろん、曹植は「雀=曹植」「鷂=曹丕」とは明言していないし、そういう寓意であったと決めつけるわけにはいきませんが、読者からそう解釈されるには十分な状況だし、曹植もそれはわかって作っていたはずです。だから、さすがにこの『鷂雀賦』を黄初年間に公表することはなかったのではないかと思います。

おそらく、追い詰められた曹植にとって、『野田黄雀行』は美しい夢であり、『鷂雀賦』の方が本音に近いのでしょう。私は、『野田黄雀行』のような、ひたすら美しい物語を作り上げる曹植も好きですが、『鷂雀賦』のようなダークサイド曹植も大好きです。でも、ダークサイドに落ちても、どこか表現が明るく可愛げがあるのは、曹植のキャラクターのなせるワザでしょうか。

曹植の『遷都賦序』に、「号(爵位)」は6回変わり、「居(居住地)」は3回変わったとという話が出てきます。私は曹植ファンになった当初、○○侯と書かれていれば○○に住んでいると誤解していたのですが、『遷都賦序』の記述から、曹植は封地が変更されるたびに引越ししていたわけではないということがわかります。

以前から、この『遷都賦序』にある3回のお引越しがどの土地であったのか気になっていました。今回はこの「六易三遷問題」(←勝手に名付けた)について、ちょっと詳しく調べてみたいと思います。


まず、正史から曹植の封爵をたどっていくと、平原侯(211年)→臨淄侯(214年)→安郷侯(221年)→鄄城侯(221年)→鄄城王(222年)→雍丘王(223年)→浚儀王(227年)→雍丘王(228年)→東阿王(229年)→陳王(232年)となります。しかし、『上九尾狐表』という作品によると、曹植は220年11月に鄄城で暮らしていたようなのです。けれども当時の曹植は臨淄侯でした。

もし、書類上は臨淄侯であるはずの曹植が、鄄城で暮らしていたのなら、その後、221年に鄄城侯になって、次に雍丘に転封される(223年後半…?)まで、曹植は書類上の封地に関係なく鄄城で暮らしていたのではないかと思います。鄄城以外で、曹植が生活していたらしき証拠が残っているのは雍丘と東阿なので、私の予想では、おそらく3回のお引越しとは、鄴→鄄城→雍丘→東阿となります。



ところで、このような「号(爵位)」と「居(居住地)」のズレは、曹植の場合に当てはまるだけではなく、他の兄弟にも当てはまる可能性があるようです。


まず曹彰の場合。

正史によると、曹彰は鄢陵侯(216年)→任城王(222年)となり、223年に亡くなっています。これだけ見ると、曹彰は鄢陵→任城と暮らしていたように思いますが、魏書19の注『魏略』に、曹彰は鄢陵から中牟に移され、中牟王になったという話が載っています。

これは単なる書き間違えという見方もありますが、『水経注』巻22によると、中牟県には「魏任城王台」という場所があったそうで、任城王の曹彰が中牟に住んでいた可能性は高いような気がします。つまり、曹彰は「鄢陵侯」や「任城王」でありながら、実際の居住地は中牟であった時期があったため、「中牟王」と誤解されたのではないかと思います。



同じようなことが曹彪にも言えます。

曹彪は正史によると、寿春侯(216年)→汝陽公(221年)→弋陽王(222年)→呉王(222年)→寿春王(224年)→白馬王(226年)→楚王(232年)と移っていますが、魏書巻13の注に「賈洪字叔業、京兆新豐人也。……延康中、轉爲白馬王相。善能談戲。王彪亦雅好文學、常師宗之、過於三卿。」とあり、延康年間(=220年)に賈洪なる人物が「白馬王」である曹彪の相になっていたようです。しかし、正史によると220年の曹彪は「寿春侯」であって、「白馬王」ではありません。

これと同じような食い違いは、曹植の『贈白馬王彪』の序文にもあります。『贈白馬王彪』はそのタイトルが「白馬王」とされているとおり、序文で曹彪のことを「白馬王」と呼びます。同じく序文から、この作品が黄初四年(223年)に作られたことがわかるのですが、当時の曹彪は「呉王」でした。しかし、この時、曹植と曹彪は洛陽から一緒に封地に帰ろうとしているので、地図で見る限り、それぞれの居住地が鄄城と白馬であると考えたほうが、一緒に帰るのにふさわしいルートであるように思えます。

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※地図、お借りしましたm(_)m

つまり、曹彪の場合も、書類上は寿春侯や呉王でありながら、白馬で暮らしていたため、「白馬王」であると誤解されてしまったのではないかと思います。誤解というより、「白馬王」ではないけれど、「白馬に住んでいる王」であったということなのかもしれません。



以上の例を見ていくと、魏の封爵制度では、まず居住地の移動が先行して、そのあとで名目上の封地を一致させるということが行われていたようです。「任命後に居住地を変える」という流れが普通だと思っていたので、ちょっと不思議な感じがします。